Der Lezte Tanz

観劇、映画鑑賞、読書のキロク。たまにひとりごと。

大河ドラマ「麒麟がくる」:フランケンシュタイン博士になった光秀と、怪物になった信長

 

大河ドラマ麒麟がくる」、最終回まで見届けました。

 

www2.nhk.or.jp

*公式サイトは3月31日に閉鎖されるようなので、NHK放送史のページを貼り付けておきました。

 

 

地味ながらなかなかの良作で、最終回放映後、いろいろと考えました。そんなとりとめのない私の感想です。考えがまとまらないうちに書いたら、えらく長くなりました。

 

 

 

物語全体での終盤、ドラマの中で光秀が見ていたという「月まで届く大きな木を信長が登っていて、その幹を自分が切り倒そうとする夢」の話。

そして帰蝶の「今の信長様を創ったのは父上であり、そなたであろう。創り出した者が始末をするのが道理というもの」といったニュアンスの台詞。

この2つを聞いて、なんか同じような物語があったような…と、しばらくもや~っとしていたのですが、ふと「あぁ、あれだ」と思い至りました。

 

www.imdb.com

 

フランケンシュタイン

原作は読んだことがないのですが、2011年にイギリスで上演された、ベネディクト・カンバーバッチとジョニー・リー=ミラー版を、映像で3度観たことがあります。

 

この演劇版が完全に原作通りだったかはちょっとわからないのですが、少なくともこのバージョンでは、最終的にビクター・フランケンシュタイン博士は、自分が創り出した怪物の暴走に責任を感じ、始末をつけようと怪物を追いかけます。

 

一方で怪物は「孤独から解放された!ご主人様が自分のことを追いかけてくれる!一緒にどこまでも行こう!」とはしゃぎ、2人で地の果てへと消えていく…という結末でした。

 

麒麟がくる」での、明智光秀織田信長の関係性と、本能寺の変に至るまでの二人のやり取りを見ていたら、この物語を思い出しました。光秀はビクター・フランケンシュタインで、信長は怪物だったんじゃないかと。

 

麒麟がくる」というタイトル通り、光秀は「この世を平らかにできる者だけが、麒麟を呼ぶことができる」と「麒麟を呼ぶ者」を探し続け、斎藤道三朝倉義景足利義昭など、さまざまな人物のもとで働きました。

 

その中で出会った1人の破天荒な若者。

魚を釣るため大海原に乗り出し、朝日を背負って浜辺に帰ってきた織田信長でした。

釣った魚を民に安く売り、「みんなが喜んでくれた」と満足そうな信長を見て、光秀は心を動かされたのだと思います。もしかしたらこの若者が…と。

 

信長は母から疎まれ、父にも理解されず、孤独かつ愛に飢えていました。

だから自分が何かすることで、人が喜ぶ顔を見るのが何よりもうれしかった。人が喜び、「よくやった!」と自分のことを褒めてくれるのであれば、彼は文字通り何だってするつもりで、それはきっと本能寺で自ら命を断つまで、彼の中で生きるモットー、というより生きるよすがになっていたのだと思います。

 

光秀は、エキセントリックながら新しい考えをどんどん取り入れ、未来を切り開くパワーを持つ信長に圧倒されて、結果的に彼に仕えることを決意します。

 

最終回の回想シーンにも入っていましたが、「大きな国とは」を語る光秀と、そんな光秀の周りをぱたぱたと走り回り、「このくらいか!?」「もっとか!?」とそのスケールの大きさを計ろうとする信長が、とても印象に残っています。

 

気分や考えがころころと変わり、負けることが何よりも嫌い、時には子供のように癇癪を起こす信長を、褒めつつおだてつつ、愛を持って支えた光秀。信長も「大きな国」を作るため、国を1つにまとめようと奔走します。

 

ところがいつからか、2人の間に静かに亀裂が走り始めました。

1度こじれたものは元に戻るどころか、どんどん歪になり、ついには周りの人にまで「光秀と信長の仲が危うい」とわかるほどにまでなってしまいました。

 

2人とも「大きな国」を作ろうと、一緒の方向を向いていたはずなのに。

同じ志を持って、ともに手を取り合ってきたのに。

光秀には信長が、信長には光秀が必要だと、お互いに思っていただろうに。

 

ドラマの終盤は、光秀の周りの人たちがこぞって、直接的ではなく間接的に

「信長がもしいなくなれば」

というニュアンスの言葉を光秀に投げかけていて、光秀はその言葉をまっすぐに受け止めたんだろうと思います。

 

そして決定打となったのは、信長からの「長く眠ってみたい。子供のときのように」という言葉、そして「大きな国を作ろうと言ったのはお前で、俺はその言葉に従っただけ。俺を変えたのはお前なんだ」という、あくまでもドラマでの言葉ですが、それが最終的に光秀の背中を押したのではないかと思いました。

 

自分が信長を見つけ、彼に期待をかけ、出世を助けてきた。

だから、信長を討つのは誰でもない、自分だけなんだと、感じたのでしょう。

 

信長もまた、光秀に向かって「平和な世の中でお前とお茶でも飲んで暮らし、子供の時のように長く眠りたい」と願望を話したところで、「織田信長」という看板を外し、光秀と出逢った頃のように過ごしたい、自分の暴走を止められるのはお前だけだ、と暗に伝えていたのかもしれません。

 

本能寺で迎えた朝、異様な雰囲気と物音で目覚めた信長が見たのは、水色桔梗の旗印。

 

光秀が自分を討ちに来たと知った信長の、悲しさと嬉しさと悔しさと誇らしさが入り混じった、あの泣き笑いの顔。

そして通例とは違ったニュアンスで発された「であれば、是非に及ばず」という言葉。

 

信長が天を目指せば目指すほど、光秀は松永久秀足利義昭や帝と、自分の知らないところで顔を合わせ、気持ちを向けていた。

自分は「大きな国」を作るために頑張っているのに、ちっとも褒めてくれない上に嬉しそうにもしてくれない光秀。

 

そんな光秀が、自分を止める決断をし、自分だけを見てくれている。気にかけてくれている。将来を想って討とうとしてくれている。

 

天下掌握への夢を絶たれた悔しさよりも、光秀が自分のために大きな決断をしたことに、喜びと誇りを感じているようにも思える表情でした。

 

明智軍を相手取って戦うその目は、あの日魚を売って無邪気に喜んでいた信長に戻ったようでした。

 

従来の「本能寺の変」の流れに則ってはいましたが、光秀と信長、それぞれが抱えていた想いは、これまでに見たことのないものでした。そして、私はこの描写にとても納得がいきました。

 

ちなみに2011年イギリス演劇版「フランケンシュタイン」では、主演の2人が博士と怪物を交互に演じていました。

麒麟がくる」の最終回前のインタビューで、長谷川さんが「光秀と信長は鏡合わせ、2人で1つ」といった意味の言葉を発しており、そんなところからも「フランケンシュタイン」っぽさを感じました。

 

 

当初「明智光秀が主人公の大河ドラマ」と聞いたときは、その新しさにわくわくしつつも、一体どんなドラマになるのやら…と一抹の不安を抱いていました。

 

さらに放送開始前からトラブルを抱え(帰蝶役の交代劇)、放送が始まれば今度はコロナ禍に悩まされ、一視聴者としてハラハラしていました。

 

物語自体も、やはり明智光秀は晩年にならないとあまり活躍の場がないということで、「もはや誰が主役なのか?」と思うような回もありました。(特に前半は、本木雅弘さんの斎藤道三が強すぎました…)

 

ただ最後まで見て、少なくともこれまでの「明智光秀」像と「織田信長」像、そして個人的には「豊臣秀吉」像も見事なまでに刷新され、「歴史の教科書の別の角度から見たら、こういう捉え方もできるかもしれない」と思える大河ドラマでした。歴史は常に勝者が綴ってきたものだし、敗者から見たら全く別の物語になるんだと、改めて実感しました。

 

 

豊臣秀吉を演じた佐々木蔵之介さん。

登場時はひょうきんで好奇心旺盛、猿っぽさはあまりなかったけど(笑)人懐こくて、従来の秀吉のイメージに合ってるなと思っていました。

 

ところが信長のもとでどんどん力をつけていくうちに、秀吉が持っていた愛嬌が影をひそめ、己の野心のために信長に尽くす姿に、だんだん恐ろしさを感じるようになりました。

 

かつて竹中直人さんが秀吉を演じた大河ドラマ「秀吉」で、とにかく明るくて楽しい人物という印象が私の中に刷り込まれていたのですが、佐々木さんの秀吉は、そんなイメージをひっくり返してくれました。あのまんま天下人として登りつめる姿を見てみたいし、逆にどんどん落ちていく様も見てみたかったなぁ。

 

染谷将太さんの織田信長

キャストが発表された時点では、正直1番不安なキャスティングでした。

織田信長、といえば、歴代様々な俳優さんが演じてきましたが、貫禄たっぷりだったり、背がすらりと高かったり、眼光鋭い男前だったり、ダンディな渋さを持っていたりと、なんとなく「織田信長といえば」というイメージがついていました。

 

ところが染谷さんは、お芝居の上手さは折り紙付きなものの、どちらかといえばまだ学生役もできそうなくらい童顔。全体的にパーツが丸くてかわいらしく、背格好もそれほど大きくなく、ましてやがっしりしているわけでもなく。もちろんまだ渋さを感じるような年齢でもないため、「信長を晩年まで演じるには若すぎるのでは?」と思っていました。

(ただ長谷川さんの光秀との年齢差を考えると、年齢の部分では妥当なのかな?とも思ったり)

 

登場時は、佐々木さんの秀吉と同じく、突拍子もないことをしでかす「うつけ者」で、純粋すぎて常識も知らないような、危なっかしい若者、という従来のイメージ通りでした。

 

染谷さんのすごいところは、この登場時のイメージを崩さず、新しい信長像を創ったことだと思います。

純粋で、喜怒哀楽が激しくて、承認欲求が人の形をして歩いてるような信長。人を引きつけるカリスマ的魅力がありながら、それをうまく使いこなせない不器用さもあり、「現代にもこんな人いそうだよな」と思わせてくれる、人間くさい織田信長でした。

 

セリフの語尾の置き方がやや気になりましたが、すべての回においてお芝居が本当に素晴らしかった…!本能寺の変でのお芝居は特に、大河ドラマ史上に残る名演だったと思います。

 

そして明智十兵衛光秀を演じた長谷川博己さん。

オファーを受けたとき、どう思ったんでしょう。だって日本史上最大の謀反人という汚名を背負った明智光秀ですよ…?しかもそんな人物を主役に据えて作り上げる大河ドラマ。どんなドラマになるんだよ!?と1番思っていたのは、もしかしたら長谷川さんかもしれないですね。

 

歴代の大河ドラマでは、やれ「きんかん頭」だの「ハゲネズミ」だの、罵詈雑言を浴びせられながら、信長に折檻されるイメージが強く、知性はあるけど器が小さくて情けない武将として描かれていた光秀。

 

そんな人物が主役に、しかも長谷川さんが演じるとなれば、少なくとも「きんかん頭」呼ばわりはされないだろうなとは思っていました。笑

 

そして期待通り、とてもスマートで知的な魅力にあふれた光秀として演じられており、こちらははじめから従来のイメージを覆してきたなと感じました。

 

周りの人物がクセ者ばかりで、主人公としての見せ場がなかなかありませんでしたが、ひたすら周りで起きる出来事を「受け続ける」お芝居がきちんとできるのも、長谷川さんだからなのかな、と。「僕が主役なので!」というオーラを、良い意味で感じなかったです。

 

そして本能寺の変に至るまでの、光秀の中での葛藤や苦悩を、本当に細やかに演じられていました。周りからいろいろ言われながら、最終的には1人で苦しい決断をしなくてはいけなかった光秀に、切なさすら感じました。

 

本能寺の変が終わったあと、焼け跡の灰に触れる表情から、「光秀は、信長と一緒に本能寺で【死んだ】のだな」と感じました。だからあのあと、別の人生を生きて麒麟を呼ぶ者を探し続け、ひそかにその人物を支えていてもおかしくはないなと思えました。

 

難しい役柄を、難しい状況の中で演じ続けられたこと、本当に大変だったかと思いますが、全く新しい明智光秀を生み出してくれて、その視点からの物語を楽しませてくれて、心からありがとうと言いたいです…!

 

なんだか随分長くなりましたが、早速今週末から始まる「青天を衝け」を心待ちにしながら、「麒麟がくる」に別れを告げようと思います。

 

1年と少しという長丁場、本当にお疲れさまでした!!